平安末期の武将・源義経の最後をご存じでしょうか?
平氏との戦いで最大の功労者となったものの、優秀すぎて異母兄・源頼朝の反感を買い、平泉の自宅である衣川館を襲撃され、妻・娘とともに自害したのです。これを「衣川の戦い」と言い、多くの人々の同情を買ったことから「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉が生まれました。(義経の別名が「九郎判官」であったため)
さて、北海道の日高地方にある平取町には、「義経神社」という神社があります。なぜ北海道に義経にちなんだ施設があるのか、そしてなぜ神社なのか。とても不思議な感じがしますが、これにはいろいろな巡り合わせがあったようなのです。
ご存じの通り、和人が来る前の北海道はアイヌの世界でした。それはそれほど昔の話ではなく、今から300~400年ぐらい前まではほとんどアイヌ人しか住んでいない土地だったのです。アイヌは文字を持たない種族であるため、記録というものが残っておらず昔のことは口伝えでしか伝承されていないのですが、アイヌにも崇拝する神がいたことがわかっています。その名をオキクルミと言います。
一方、江戸幕府は、1660年代に北海道(当時は蝦夷地)を視察するために巡見使を派遣したのですが、その際にとんでもない事実を知りました。その一行がアイヌのオキクルミの祭祀を見たときに、アイヌに間では神であるオキクルミが、なんと、
「判官殿」と呼ばれていた
のです。さらにその判官殿が住んでいた屋敷まで残っていたとか。そこで、
・オキクルミ=義経ではないのか
・義経は衣川で死んでいなかったのでは
・密かに蝦夷地に渡り、アイヌの神として生きていたのだ
となり、ここから義経北方伝説が生まれました。
そして時は流れて1798年。
調査のため蝦夷地を訪れた近藤重蔵が、アイヌのオキクルミに対する信仰心を見て、翌年(1799年)、仏師に作らせた源義経の神像をアイヌに与えて祀らせました。
その場所が現在の平取町、そしてこの神像が義経神社の始まりになります。
なんとなく荒唐無稽な話のように感じますが、実はこの義経北方伝説、単なる都市伝説とは言えず、それなりに信憑性があるらしいです。当時、識者の間ではかなり信じられていたそうです。その根拠としては、
・源頼朝の命令で義経を追い詰めた藤原泰衡は、実は父・藤原秀衡から「源義経を大将軍として国務せしめよ」という遺言を受け取っていた(実は逃亡を手伝ったのでは?)
・義経の死が源頼朝に伝わったは、自殺から22日も後だった(逃げる時間を稼いだのでは?)
・北海道の各地には、義経に関する伝説がいくつも残っている(偶然にしては数が多い)
などが挙げられます。
さて、事実はどうなのか?
この謎は永遠に謎のままかもしれませんね。
そんな義経神社には、今でも義経に関する資料がたくさんあるそうです。
興味のある方は、是非。