府県廃置法律案。47道府県を28道府県に再編しようとした明治時代の幻の法案

1903年の大日本帝国に存在した府県廃置法律案の附図。 大日本帝国内閣, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 

47の都道府県はいつから?

2021年現在の日本は、47の都道府県に分かれて自治を行っています。この「47」という体制はいつ頃できたものかご存じでしょうか? これ、私が思っていたよりかなり古い話でした。

明治時代の前、江戸時代では「県」という概念がありませんでした。大名が直轄する「藩」という単位で分かれていたんですね。

明治維新があっても何年かは同じような体制だったのですが、1871年(明治4年)、廃藩置県が施行され、それまで藩だったものがほぼそのまま「府」「県」に置き換わりました。その時点で305府県あったそうです。

そして3ヶ月後、305府県75府県に再編。3ヶ月後にやるならいっぺんにやるべきだと思うんですけど、いろいろあったんでしょうね。住民や県庁はさぞ混乱したことでしょう。



さらに5年後の1876年、今度は38府県に再編。でも全国各地でかなりの反対運動が起こって、1888年、8県が復活して46府県になっています。

当時、北海道は存在しておりましたが、少し別の扱いだったため、この46府県には含まれておりません。なので、この46府県に北海道を足した47の自治体が、現在の47都道府県の大元になります。東京都は当時、東京府でした。

よって、最初の問い、47の都道府県はいつから?の回答は、1888年となります。どうでしょう? 1868年までが江戸時代だったことを考えると、意外と歴史がある体制だと思いませんか?

しかし、一度落ち着いた自治体を、また脅かす事件が起きます。

 

47道府県を28に再編する法案「府県廃置法律案」

1902年(明治35年)、大日本帝国政府は「府県廃置法律案」を作成します。その内容は、

「45府県を26府県に再編する」

というものでした。(北海道と沖縄を除いているため45府県になっています)

なんと! 38に再編したときにあちこちで運動が起こったのに、今度は26+2の28に再編しようとしたんですね!

再編の理由としては、「交通機関が発達したこと」「行政の整理統一」「経費の節約」です。

確かに47もあった県庁が28になればいろいろと統一しやすくなりますし、経費も安くなりますよね。

結果的に実現しませんでしたが、もしこれが施行されていたらどうなっていたか? それが冒頭の地図になります。

1903年の大日本帝国に存在した府県廃置法律案の附図。 「明治三十四年十月四日 東京日日新聞 第九千號附録 大日本帝國全圖」の上から府県境界を描き足したものと考えられる。 大日本帝国内閣, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

※高解像度版は【こちら】

 
この地図はその法案に付いていたものなんですけど、wikipedia指定のクレジットが「大日本帝国」だというのがすごいですね(汗)

地図には、聞き慣れない県名がいくつかあります。

仙台県」「宇都宮県」「金沢県」「名古屋県」「松江県」「高松県」・・・

県庁所在地の都市名がそのまま県名になったケースでしょうか?
仙台県とかは、なぜ宮城県じゃだめだったんだろう? 不思議ですね。

それにしても、
この地図やばいです。県境の再編とかそういう話以前に、明治36年時点での主な地名と鉄道網が描かれています。何この線路?? 知らないのが結構あるんですけど! やばい。調べてみたくなりました。でも話が逸れていきそうなので、これはまた別の機会にお話しましょう。



 

なぜ実現しなかったのか

この再編案では、複数の県が合併するだけじゃなく、分割したり移動したりしているんですよね。45が26になるわけですから、その過程で消滅する県がたくさんあります。

住んでいる人たちはどんな気持ちになるんでしょう? もし「北海道がなくなって来年から青森県になるよ、北海道庁は消滅するから何かあったら青森県庁に行ってね」って言われたら、、、

うーん。わかりません。というか、面倒だな、という感想が一番先に来そう。もちろん、自分が愛した地域の名前がなくなるのも寂しいですよね。というか、行政手続きのために青森まで行くというのが、ありえないですね。例が少し悪いかも(笑)

あと漠然とした不安がありますよね。今までといろいろ生活が変わってしまうんじゃないか、という不安です。県土が広くなるので行政が行き届くんだろうか、とか、合併した自治体から見ると、ちゃんと予算がもらえるんだろうか、とかですね。

とまあ、みんなそれぞれの立場でいろんな不満を抱えてしまい、これが大きな反対運動に繋がります。かなりの規模の反対運動で、特に消滅する予定の県の知事や議員などが上京して団結し、政府と交渉するようになりました。最終的には政府が反対運動を規制するに至ったそうなので、かなりのものだったんでしょうね。

しかし、この法案が実現しなかったのは反対運動のためではなく、別の理由でした。

本来、そのまま進めば、この法案は議会に提出され、1904年4月に施行されるはずでした。しかし、1903年末、学校の教科書をめぐる贈収賄事件で内閣が弾劾され、衆議院が解散。さらに翌1904年2月に日露戦争が勃発。そんなバタバタの状態になったため、この法案は議会に提出されることはありませんでした。

なんと。
消滅しかけた自治体を救ったのは贈収賄事件と日露戦争。
皮肉なものです。

ただ、その後、一度もこの構想が再燃しなかったのは、やっぱり反対運動が効いたのかもしれませんね。

ちなみに、現代の評論家によれば、この26府県への再編案はとてもよくできていたらしいです。地域性や交通網、人口のバランスなどがしっかりと考えられていたようですね。

確かに、机上で資料を眺めながら頭の良い人が考えればそういう良いものができるのかもしれません。でも、机上では人々の気持ちまでは見えないですからね。

2000年代にも「平成の大合併」呼ばれた施策により、全国のたくさんの市町村が消滅しました。

長い目で見たら合理的なのかもしれませんが、そこに住んでいる人たちの気持ちはどうだったんだろう、と考えると、寂しくなってしまいますね。