昭和の札幌市あいの里の航空写真と現在を比較してその歴史を辿ってみた(1976年・1985年・2008年)

ロイズローズガーデンで撮影したバラの花。2021年7月

 
7月に札幌の北の端にあるロイズローズガーデンに行ってきました。チョコレートのロイズ本社(旧読売新聞)のすぐ横にあるそのローズガーデンは、すごい数の花たちが咲き乱れる素晴らしい庭園でした。まあ、そのレポートは別の機会にゆっくりとすることにして、今回は別のお話。

ローズガーデンの帰りに最寄りのJRあいの里公園駅(学園都市線)から電車に乗った際、不思議なことに気がつきました。

あいの里公園駅付近は結構な住宅街で、駅の利用客もかなり多いのですが、それは西側だけの話で、駅の東側は原野のような風景だったんです。

2021年7月に撮影した学園都市線あいの里公園駅の東側の風景

 
なんで線路の両側でこんなに極端なんだろう?
そういえばあいの里地区というのは、歴史が浅く、昭和の終わり頃にニュータウンとして造成したんだっけ・・・

ということで、今回は昭和のあいの里周辺の航空写真と現在の航空写真を比較しながら、あいの里の歴史を振り返ってみたいと思います。

 



札幌市あいの里周辺の航空写真(2008年・1985年・1976年)

まずはあいの里周辺の新旧航空写真を紹介します。これらは国土地理院地図から引用しています。

 
【2008年の航空写真】

2008年の札幌市あいの里周辺の航空写真。地理院地図より引用【引用元

【1985年の航空写真】

1985年の札幌市あいの里周辺の航空写真。地理院地図より引用【引用元

【1976年の航空写真】

1976年の札幌市あいの里周辺の航空写真。地理院地図より引用【引用元

 
この地図のエリアとしては中央があいの里、左下が拓北、左上の一部と中央下側が篠路町拓北、右側が篠路町福移になります。いずれも札幌市北区に属しています。
右上にちょこっと見えるのが石狩川で、その右側は当別町です。

 

札幌市「あいの里」は1980年から整備が始まった

2008年の航空写真と1976年の航空写真を比べるとものすごい違いがありますよね。32年でこんなに風景が変わるのかって感じです。

1976年のあいの里地区は、ほとんど畑しかありません。
1985年のあいの里地区は、道路は整備されていますが住宅はあまりありません。
2008年のあいの里地区は、びっちりと住宅が並んでいます。

調べてみると、あいの里のニュータウンは1980年から整備が始まったということで、1976年に面影がまったく無いのは当然なんですよね。「あいの里」という名前はそのときに付いたもので、Wikipediaによると、

明治の開拓期に付近一帯で藍の栽培が盛んであったことと「人びとに愛される街」になることの願いから、ニュータウンの愛称としてあいの里と名付けられ、それが正式な町名となった。

とのことです。あいの里の「あい」は「藍」だったのですね。

私は1980年代後半に、一度あいの里を訪れたことがあったのですが、そのときはキレイに整備された街並みではあるものの、家がほとんどなくて寂しい感じだったのを覚えています。正式な年は覚えていないのですが、上の1985年の航空写真と同じような感じですね。そしてその10年ぐらいあとに訪れたときは様変わりしていて驚きました。家やショップがたくさん出来ていて別世界でしたね。

 

あいの里の歴史

ここで、あいの里の歴史を振り返ってみましょう。

1882年(明治15年)
 徳島県からあいの里地区(当時は篠路村の一部)に入植した滝本五郎氏と阿部興人氏が、篠路興産社を設立。少しずつ規模を拡大しながら様々な作物の栽培を行うが、その中でも徳島県から持ち込んだ「藍」の栽培に力を入れた。
1886年(明治19年)
 篠路興産社が製造所を建て大々的に藍の加工を始めた。
1890年(明治23年)
 内国勧業博覧会で篠路興産社の藍玉が一等賞となった。
1924年(大正13年)
 現在の茨戸川から水路とポンプ場を設置し稲作を開始。後にこの一帯は米の一大生産地となる。
1973年(昭和48年)
 拓北宅地開発期成会を設立。
1980年(昭和55年)
 住宅・都市整備公団、北海道住宅供給公社などが主体となり、ニュータウンの開発が始まる。JR札沼線の北側約378.2ヘクタール。「あいの里」と名付けられる。
2002年(平成14年)
 JR札沼線の南側49ヘクタールの開発が始まる。「南あいの里」と名付けられる。

うーむ。
藍の栽培と加工に力を入れた人たち、
水路を作り稲作を始めた人たち、
宅地開発を説得して歩いた期成会の人たち・・・

いろんな人たちの尽力があって、今のあいの里があるんですね。素晴らしいです。

この記事を書くために色々と見て回りましたが、「藍の道」「藍栽培ゆかりの地」など、藍に関する地名や史跡がありました。

あいの里。藍の里。

その歴史を知った上でのこの地名を口にすると、とても重たいものを感じますね。

ちなみに、この記事は、以下の史跡の碑文を参考にしています。

「藍栽培ゆかりの地」にある石碑(札幌市北区篠路町拓北416–1)2021/8/16取材
「藍栽培ゆかりの地」にある石碑の碑文
あいの里開発記念之碑(札幌市北区あいの里4条6丁目拓北会館前)。2021/8/16取材
あいの里開発記念之碑の碑文

 



JR札沼線・釜谷臼駅(かまやうすえき)と東篠路駅

上で紹介した3つの航空写真を見て面白いことに気がつきました。
現在、このエリアにはJR札沼線(学園都市線)の「拓北駅」「あいの里教育大駅」「あいの里公園駅」の3つの駅が存在しており、その中心駅は、北海道教育大学が目の前にある「あいの里教育大駅」です。乗降客も札沼線(学園都市線)の中では新琴似駅に次ぐ2番目の多さを誇っています。

現在の拓北駅(学園都市線)。2021/8/16撮影

現在のあいの里教育大駅南口(学園都市線) 2021/8/16撮影

 
しかしながら、真ん中の1985年の航空写真には「あいの里教育大駅」が存在していません。それもそのはず、あいの里教育大駅は北海道教育大の移転に合わせて1986年に開業したんですよね。1985年の段階でニュータウンが閑散としていたのは、公共交通機関がまだ整備されてなかったからなのかもしれませんね。

ただ、私が驚いたのは、1985年の航空写真だけではなく、1976年の航空写真にもその前後の駅、拓北駅(当時は東篠路駅)とあいの里公園駅(当時は釜谷臼駅)が存在していることです。

東篠路駅の周辺は古くから宅地造成されていたので分かるのですが、当別町との市境に近い釜谷臼駅がそんなに古くからあったとは。

あいの里公園駅(釜谷臼駅)の歴史を調べてみると以下の通りでした。

1932年 札沼線釜谷臼駅設置期成会が地元住民を中心に起こった
1958年 釜谷臼駅(かまやうすえき)として開業
1986年 あいの里教育大駅開業に伴い、600m当別方向へ移転
1991年 当駅折り返し列車運用開始
1995年 釜谷臼駅から「あいの里公園駅」に改称
Wikipediaより引用

驚くべきことに、釜谷臼駅設置期成会が1932年に誕生しているんですね。これ、何がすごいかって、札沼線が開通したの1934年なんですよ。札沼線が開通する前から釜谷臼駅を作る動きが地域住民の間にあったのです。

稲作の導入、早々とした駅の設置、そしてニュータウン構想・・・。
明治に入植して藍の一大生産地を作り上げた滝本五郎氏たちのパワフルで活動的なDNAが、脈々と受け継がれている、そんな気がしてきました。

ちなみに、釜谷臼駅(かまやうすえき)という名前、とても懐かしいです。私は学生時代から札沼線(学園都市線)を利用していましたが、「釜谷臼行き」という列車がたまにあったのを覚えています。それは上の年表で言う「当駅折り返し列車運用開始」以降の話だったんですね。

 

あいの里公園駅の東側はなぜ開発されていないのか

さて、ここで冒頭の疑問に戻ってみましょう。
なんであいの里公園駅の東側は原野のままなのか?

2021年7月に撮影した学園都市線あいの里公園駅の東側の風景

 
ハッキリと理由を確認したわけではありませんが、この記事を書く中で分かったことがあります。
この地図を見てください。

この地図の赤い線で囲まれている区域がありますが、この区域は「篠路町拓北」になります。上の写真に写っているホーム東側の原野は、住所的にこの篠路町拓北のエリアなんですね。逆に駅の西側は「あいの里」になります。

なぜあいの里公園駅の東側はなぜ開発されていないのか?
とても簡単な話でした。

あいの里ニュータウンとして計画し整備したのが、札沼線の西側(北側)だけだったからです。

まあ、こうなった理由はいろいろあったのかもしれませんが、個人的には「駅の反対側に何もない」という状況はとてももったいないような気がしますね(^_^;)