かつて、北海道には青函連絡船という青森と函館を結ぶ鉄道連絡船がありましたが、さらに昔、北海道にはもうひとつの鉄道連絡船があったのをご存じでしょうか? その名は「稚泊連絡船」。北海道の稚内市と、樺太の大泊町を結んだ航路です。
そうです。その昔、稚内は日本最北の駅ではなかったのです。
稚泊連絡船の概要
1945年まで、樺太(現・サハリン)の北緯50度線からの南半分は日本の領有下であり、最大の都市・豊原市を中心とし約40万人が住んでいました。そして、立派な鉄道網が整備されており、その中の樺太東線と、北海道の宗谷本線を連絡する船が稚泊連絡船だったんですね。
距離にして167.0 km。所要時間は約8時間。青函連絡船が4時間でしたので、その倍の時間ですね。航路開設は1923年(大正12年)5月1日のことでした。基本は夜行便で1日1往復ですが、冬期間は昼行便で2~3日に1往復だったようです。
樺太の鉄道について
樺太の鉄道といっても、私も最初ピンと来なかったので、路線図を探したら出てきました。駅名を右から左に読むので注意してください。
これを見たとき、ずいぶんたくさんの駅があることに驚きました。樺太という場所自体がどんなところだったのかをあまり知らなかったため、これだけいろいろな場所に集落があることが想像できなかったんですね。しかもこの鉄道、かなりの距離です。右側を縦に走っているのが樺太東線なのですが、この路線図が描かれた後、さらに北へ延伸して14駅も増えています。最終的に、南の大泊港駅から北の終着・古屯駅まで、延長414.4kmもあったとのことです。札幌駅-稚内駅の距離が396kmなので、それよりも長い路線ということになりますね。樺太半島の南半分とはいえ、かなりの面積だったんですね。
稚泊連絡船の終焉・宗谷丸の勇姿
そんな稚泊連絡船も、たった22年でその幕を閉じることになります。太平洋戦争の勃発です。
1945年8月9日、ソ連軍が北緯50度線を越えて南樺太に攻めて来ました。樺太庁は緊急疎開の方針を決定し、輸送の方針を通達。ここから稚泊連絡船唯一の船舶となった宗谷丸の大活躍が始まります。
8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して太平洋戦争は終結しましたが、ソ連は攻撃の手を止めませんでした。ソ連軍はどんどん南へ進んでいき、それに伴い、疎開民は大泊に向かいます。軍艦や貨物船などあらゆる船舶で北海道への疎開を続けていましたが、海路では潜水艦や航空機による船舶の攻撃が行われ、8月22日、海軍の第二新興丸、逓信省の海底電線敷設船小笠原丸、東亜海運の貨物船泰東丸が次々と撃沈されていきました。
8月23日夜、ソ連軍からは海上航行禁止令が出ましたが、宗谷丸は危険を承知で大泊を出港。なんと定員の6倍にものぼる4500人を乗せていました。翌朝、なんとか無事稚内港に到着したところで、ソ連軍が宗谷海峡を封鎖。それが、稚泊連絡船最後の航海となりました。
宗谷トンネル??
そうやって、稚泊連絡船は無くなったわけですが、青函トンネルならぬ宗谷トンネルなどという信じられない計画があるようですね。最終的にはシベリア鉄道が北海道まで延伸できるとか。それはそれでロマンなんですが、荒唐無稽すぎて夢を描けません(笑) まあ、現在それを主張しているのはロシアだけらしいので、実現の可能性は低いでしょうね。
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